子供も親も一年生

326日目の朝、いつものようにつかまり立ちをしていました。その場で少し手を離してみては、拍手をして、その反動でコテンとお座り。その繰り返し。すくっとたつのはだいぶスムーズです。


歩くのはごくたまに、1,2,3歩ぐらい。そこにつかまるところがあれば上手く行くようです。10ヶ月を過ぎたところですから、歩き始めるには少し早いですね。人によってみんな違いますから、多少の誤差はあると思いますが、2人目となると、受ける刺激も周囲の対応も変わってきますから、なんでも早いというのはよく聞きます。


夕飯の準備をしていると、テコテコとハイハイでいつの間にか足元に来ていて、来ないなと思うと、大抵ちゃぶ台のところでいたずらしています。

なんでも手づかみで口に放り込むので、ちゃぶ台の上はキレイになりました。いつもなら出しっぱなしのものも、片付けるようになったので、いい習慣かもしれません。


ネコのいるお宅に行くと、食べ物がキレイに片付いているのですぐわかります。それと同じとまではいきませんが、ちゃぶ台の上に物は置いておけません。


あるときおとなしいなと思っていたら、両手でチョコレートをわしづかみして、バクバク食べていました。その汚しプリといったらものすごかったのですが、どうやってチョコの箱を開けたのかに興味があって、そちらの方が気になりました。

意外とみているときはやらずに、知らない間にいろんなことをやるようになっていますね。たって歩くということも、もしかしたら、見ていない時に10歩ぐらい歩いているかも知れません。


今は昔と違って子供に注目する機会が多いですから、成長の変化を楽しむことが出来ますが、昔は子供が多くていちいちかまっていなかったといいます。子供も子供で、注目されないことをわかっていますから、あまりあーだ、こーだなく、子供たちで集まって、大きい子から小さい子まで一緒に遊んでいた。どこの子供かも誰でも知っていました。


少なくとも僕の子ども時代はそうです。ところが今は、見たことあるけれど、どどこの子か知らないというのがほとんどで、子供同士であそぶ機会が減って、親との密接度が深くなっています。

これを整体的に見ると、確立された甘えの中にいるので、わざとセキをしたり時には病気になってみたり、そういうのが多くなっているように思います。そこで大変だと病院に連れて行ってはとなると、親も大変ですから、自分で乗り切るという試練も必要です。

しかし密接度が高い現代では、見ているとかわいそうとなって、どうしても心配してしまいます。そこが昔との差で、そんな事があったのか、というぐらいで済ましていたことも、今では大変だとなってしまう。


要は知らなかった、で済まされることも合ってもいいと思う。そういう風になている。ずっと見てなくても育ちますから、ある程度はほおっておく、というさじ加減も必要であると思っています。



だからいちいち干渉しないということも、時には必要なのです。見逃さぬものかと、デジカメやビデオを取る時代ですが、そういうことより、そのこの要求を読み取る方に注目するべきだと思います。

そうやって集中して子供を見ていると、ウソの病気やセキが良くわかります。そのウソの訴えは赤ちゃんでもやります。バレバレでとても面白いのですが、そこの駆け引きをうまくやることも大切ですから、親も子供と一緒に成長していくのだなぁと感ます。